昭和37年卒明和高校剣道部
医者になってしまうと同級生や知人友人の多くは同業である。その点高校時代の仲間はさまざまな分野で活動をしており、新鮮である。我が愛知県立明和高校剣道部の同級生は東京とその近辺に6人も住んでいる。10数年前から毎年東京で集いを持つようになった。はじめのうちは、都内の剣道部員だけであったが、名古屋からも有定剣士が加わり、更に、いつしかそれ以外の同級生も集まるようになり、今では12人も集まるようになった。夏は信州でゴルフ、冬は東京で飲み会を開いていた。しかし、よる歳とともに飲み会だけになり、それも酒量は年々減ってきている。
今年の例会は2月の第3金曜日佐藤武信君の幹事で人形町の瀟酒な居酒屋で開かれた。佐藤君は若いころは住宅公団の設計士で、現在も週5日働く仲間のなかでは唯一の人である。江崎賛平剣士が”お前はこの年になってもまだ会社に行くのは自分が価値のある人間だと思っているのか?”と彼特有のぶしつけな質問を投げかけた。一瞬、少し白けた雰囲気が漂ったが、すかさず、佐藤君は、”僕は若い者の仕事を増やすために行っているんだ”とうまく切り返した。佐藤君は学者タイプの堅物で昔ならばそんな応答はできなかったろうに、人間が錬られてきたのだろう。
一方江崎剣士は3年ぶりの出席である。細君がシニア海外ボランティアに応募し、2年半、バリ島で日本語教育に携わるのに付き添っていっていたという。江崎剣士はニコンを定年で辞めた後は、信州の別荘と東京の自宅との往来を常とし、田舎暮らしを楽しんでいる。彼の自慢は南アルプス山麓を背景とした自然を取り入れた手作りの庭園だという。人より自然に惹かれるのは彼らしいところである。
学生時代大将を戦った上澤信彦剣士はおのずと会の司会をしている。彼は天性の指導力をもち、学生時代から非の打ちどころのない剣道部部長であった。若いころは大手自動車部品メーカーの海外工場の副社長を長らく務めた。工場のあったテネシーでは当時名士だったという。今は大手銀行から依頼される会社再建の神様となっている。3つ目に再建に成功した会社はJAXAに宇宙ステーション「きぼう」をはじめ2600品目もおさめたという秀才集団の明星電気である。110億円の累積赤字を6年間でゼロにした上澤剣士の実績は斯界では高く評価されている。
副将を務めた山上俊二剣士は最近欠席がちである。彼は道路公団の技師を勤め上げ、清水建設の営業部長をやった。藤原正彦の「国家の品格」を愛読する謹厳実直なサムライで、その風貌は宇野重吉をほうふつとさせる。年賀状に描いてくる彼の油絵は素人離れしている。最近は夫婦での海外旅行と地元のボランティア活動に励んでいるようだ。中堅の水野剣士は夭逝した。勝負強い男であったが残念なことである。
次鋒の神田剣士は音沙汰がない。
先鋒でまず勝ちを収めることが役目であった筆者は3人の優秀な院長と心遣いの利いたスタッフに囲まれ精神科医者三昧をしている。
井上正一郎君は我々37年卒全体のまとめ役である。同級生の動向を実によく知っており、あるとき新聞社に依頼したいことがあり彼に電話をしたら即座にコネをつけてくれた。実に便利で親切な好漢である。工学部出身の井上君は水処理関係の仕事や自然木を生かした仕事をしており、今も3つの会社の相談役として多忙な毎日を過ごしている。先日、筆者のクリニックに診察を受けにきた。主訴は記憶障害である。最近、細君が昔のことをあれこれ言うのだが20年、30年昔の出来事を全く覚えていないので心配になったという。もちろん心理検査の結果はすべて正常。認知症は昔のことはよく覚えているが、最近のことは全く忘れてしまう病気であるから、君はそんな心配は全くない、君は細君に対する興味と愛情が少し欠けていただけではないのかと診断を下した。井上君の話は我々年代男性に多少なりとも共通することで、男性と女性の記憶機構の違いは精神医学の大問題だと考える。
大森孝治剣士は本州製紙の営業マンを勤め上げた社交術に長けたまじめ人間だ。当時の銀座のことは知り尽くしている。言葉は多くないが人の気持ちをさりげなく汲む彼の血は、高名な竹工芸家の父である大森竹友斎の職人気質を引くのであろう。先日の会で彼は、50代は会社への、60代は業界への、70代は育ててもらった社会への恩返しの生活をすると宣言した。大森剣士の誠実さは年齢を重ねてますます輝きを増している。小生は現在も大森剣士の世話になっている。大森剣士は医療法人和楽会の治験審査委員として毎月会議に出席している。
もう一人小生の面倒を見てくれている同級生がいる。平泉博暎君である。彼は日立からグループ会社の旅行社に出向し、北南米での貴重な海外生活をしてきている。現在は千葉県に住み、水泳とゴルフは毎週欠かすことなく、その体力は筆者のそれより20年ほど若い。緻密な頭脳と質実剛健な性格は、出自が真宗のお寺の三男であることから納得ができる。彼は筆者のクリニックの倫理委員を引き受けていてくれる。筆者は雀百まで踊り忘れずで、今も臨床研究に手を出すし、実習に訪れる心理系大学院生も研究に携わる。平泉君の役目はクリニックで行われる研究に対する倫理的審査である。
古希を前にすると一つや二つの大病をすることは稀ではない。有定正樹剣士は、昨年名古屋から来て小唄端唄の楽しみを語ってくれたが、今年は大腸の手術後の静養中で欠席した。彼はトヨタ自動車の部品を作る近代的な工場を名古屋に持つ事業家である。小生とは高校1年からずっと一緒で、母一人子一人という同じ境遇で育ったせいかいつも親近感を持ってきた。
矢崎総業で研究にいそしんだナイスガイの長谷川雄健君も今年は病気療養中で欠席となった。先日、長谷川君は自分の血液検査所見の経過を送ってきた。予断を許さない状態ではあるが何とかなりそうである。いがくの進歩を期し、来年は元気な姿が見たいものだ。
林勝洋剣士は大林組の電気技師として活躍した。定年後は特殊技能を活用し仕事は続け、東海道や中山道を踏破した。彼は器用な人で、メールでパソコン画を送ってくれた。一昨年大手術をして、元気なうちに何か残したいとして、6年間に詠んだ俳句2百句をまとめ、自筆の水彩画を入れた句集「芽吹き」を昨夏編んだ。筆者が選んだ秀句を紹介しよう。
「流し眼を 雀にくれる 案山子かな」
「蜜蜂の ぬつと尻出す 花の壺」
しゃれた自然観察です。
「置炬燵 指図ばかりの 女房かな」
夫婦関係が垣間見られます。
「仰向きて 大往生の 秋の蝉」
年齢を重ねないと読めない句です。
「形代に やまひの息を 二度三度」
術後の不安が伺われます。
「快方に 向かふ予感や 鰯雲」
さわやかな秋空が彼の気持ちを映しだしたのでしょう。
若い日の友に会い、語らうことは歳とともに楽しみになります。また、人生の哀歓をしみじみ味わう機会ともなります。人生をありがとうという気持ちが湧いてきます。