病(やまい)と 詩(うた)【29】―「見果てぬ夢」を診る―(ケセラセラvol.75)
東京大学名誉教授 大井 玄
臨床医はだれでも不思議なことのひとつやふたつを体験しているものである。地方に講演に行く楽しみのひとつは、そんな話を伺えることにある。以下は奈良県で開業しておられる脳外科精神科中島孝之先生の話そのままを書き写したと言ってよい。
ある時彼は一軒の定期往診を頼まれた。患者さんは七十五歳の男性で、半年ほど前に岡山県で作業中急に左半身が動かなくなり、救急で病院に搬送された。これは右脳の梗塞のためで、言語中枢は左脳にあるため会話の能力は損なわれなかった。入院一ヶ月、リハビリ二ヶ月ののち、娘の嫁ぎ先の奈良県に転居した。
ここでもリハビリ通院を勧められたが積極性に乏しく、初めは週二回の予定だったのに回数が減り、週一回、さらに二週に一回になり、ついには自宅でほぼ一日中寝たきりで過ごすようになった。会話もほとんどしなくなった。このような状態で在宅医療、できればリハビリを始めてもらいたいというのが、家族の希望であった。
訪問・初診当日、中島先生は往診目的と脳外科の医師である旨を彼に告げたが、「あぁ」と言っただけで患者は視線をこちらに向けようともしない。型どおりの診察だけで早々に切り上げた。
週一回の訪問の二回目も同様だったが、三回目の訪問時、ベッド脇の壁に一枚のカレンダーが貼ってあるのに気付いた。
その家は玄関を入るとまず大きな絵画が目につく。ヨーロッパの珍しい置物なども飾られている。部屋に入るとベッド横には書棚があり、何冊かの洋書や洋雑誌が並んでいる。そんな環境の中、あまり動くこともせず、病人はただじっと横になっているのだった。
さて、そのカレンダーはイタリア語で写真入りだった。「このカレンダー珍しいですね。船舶の艤装金具ですか。イタリアのものですね」。とたんに返事が返ってきた「これが解るか。これが解った人は先生が初めてや」。これが初めての会話らしい会話だった。落ち着いた静かな話し方である。
「いや、僕は小型船舶一級の免許を持っていますし、もともと大阪の海のそばで育ちましたから海と船は大好きなんです」
「そうですか。いやね、私は昔ヨットを造っていたもんですから。お母さん、あの雑誌出してくれよ」
「はいはい」と、夫人が出してきた雑誌は「舵」「船と船舶」といった船、ヨットの専門誌で、その中の新造船のページに、搬送するヨットの写真付きの記事がいくつもあった。話から判ったことは、彼がかなり有名なヨット造りの専門家で、石原前東京都知事のヨットも設計し、ヨーロッパへも何隻も送り出していることだった。
その後は、訪問するたびにヨットの話で盛り上がり、それまでのずっと横臥していることの多かった人が、殆んどベッド上に坐って話をするようになった。
ただ、リハビリへの積極性の欠如は相変わらずだった。あまり意味がないから、というのが病人の言い分である。船の話のときとは口調にもまなざしにもずいぶん差があるのだった。
ある時夫人を交えて家族の話になり、娘の一人がイギリス海軍の将校と結婚し、ジブラルタル海峡(スペインに接するイギリス領)の海軍基地内に住んでいるのが判った。地中海の話になると、あのヨットについて話をするときにも似た口調と目の輝きが出るのだった。新造船を納めにフランスに行き、晴れ渡った青空のもと地中海でしぶきをあげて帆走した話が次々に出て、もう一度行ってみたいと溜息を吐くのである。
「行きましょうよ。地中海に。娘さんのところへ」
「そりゃ行きたいけど、無理やろ」
「現在の空の旅では、身体障害者に対するサービスが充実していますから十分いけますよ。ただ十五時間くらい坐る横になることの繰り返しがあります。まず何時間かは坐って過ごせるようになる必要があります」
しかしそのためには、まず、何時間かは坐って過ごす体力がなければならない。中島先生は往診のたびにうまくそこに話を持っていくようにした。何度目かの話し合いで患者さんは「やってみよう」ということになった。初診から三~四ヶ月が経過していた。
海外旅行を目標にするとリハビリに熱が入り、玄関からの段差も懸命に上り下りするようになる。昼間はほぼ車椅子に坐って過ごし、10時間以上座位の保持が可能なまで進歩した。
初診から約半年後の平成十一年六月、スペインに向け出発し、無事到着の報告があった。その後の夫人の手紙には、思いもかけなかった生活に感激していること、イギリス海軍の協力のもとに地中海を航海し、十分に満喫している様子が綴られていた。
船は滑る 飛沫煌めく 海は夏
三ヶ月間ジブラルタルに滞在し、再び十数時間の空の旅をして帰国した。
自宅へ戻ると、旅の楽しい経験を穏やかな笑顔でゆっくりと話す以外、中島先生のヨーロッパでの体験談や船にまつわる話題に耳を傾けることが多くなった。
秋口の冷え込みや旅の疲れも重なったのか、しばしば上気道感染を繰りかえすようになる。また食欲の減退とともに意欲の低下が顕著になり、食事や水分摂取も減ったまま、静かに笑っているような表情で一日を過ごすようになった。本人も夫人も入院などせず、自宅で静かに最期を過ごしたいという希望だった。しばらくして肺炎と思われる発熱、呼吸障害が現れたが苦痛の訴えは少なく、治療への反応も乏しいまま数日後眠るような臨終を迎えた。往診を始めてから約一年の経過だった。