病(やまい)と詩(うた)ー死とさくらー(ケセラセラvol.76)
東京大学名誉教授 大井 玄
一昨年の春には何人もの旧友が死んだ。
Kは秋田の中学時代からの友だった。絵がうまく美術の教師にいつも褒められていた。父親が早く死んだので、中学を出るとすぐ上京し、文京区春日町付近の貧しい一郭で部屋を借り、映画館の看板を描くことで生活していた。すこし離れた小石川植物園裏に住んでいた私はときどき彼をたずねた。彼は夕方暗くなると南京虫が壁をつたって降りてくるのが不気味だと語り、聞いている私もそこらが痒くなる思いだった。終戦後5~6年経っていたが、私たちは貧乏だった。こちらは金がないので、夏休みに神田神保町で立ち読みするため古本屋をめぐるときには、白山から、都電を利用せず往復した。炎天下、丸坊主の頭の球状の影が足元に濃かった。
Kはデザイナーとして名をなし、生活も安定し、子供も独立したが、何年かまえに胆のうがんになり、それは肝臓にも転移した。痛みはないものの、何とも言いようなくだるいうえ、体力がなくなり、昨年暮れ入院先の大学病院を訪れたたとき、ベッドから自力で降りるのも難儀なほど弱っていた。もともと細い体だったが、文字通り骨と皮のミイラのようになっていた。「生きているのが大儀で、夜眠りこむときには、このまま目が覚めないでくれればと思う」と、彼はよわよわしい息を吐いた。
それでも一時退院して正月を家で過ごした。一月末電話すると、奥さんが出て、彼は便所にいるがそこで倒れているという。便器と扉の間に倒れて動けない。内部に開く扉がそのため開けられないのだった。数日後電話すると、今朝死にました、静かでしたとのことだった。「苦しくなくて良かった、ご苦労さまでした」とねぎらったが、それは、彼にも、奥さんにも向けた言葉だった。
原田正純さんとは、ちょうど四〇年前の一九七二年に、彼が水俣病についての講習会を現地で開いたとき参加して知り合った。私は当時東京都立衛生研究所に勤め、ドバトを生物指標として鉛の地域環境汚染を主に調べていたが、メチル水銀の毒性とその緩和因子についてもラットを使い実験していた。ラットのメチル水銀毒性は、その尻尾を掴んでぶら下げると、後肢を交差させるのが特徴的な神経徴候だ。面白い徴候だが、原田さんの岩波新書で出した「水俣病」は、そんな実験室での仕事をつまらなく感じさせる迫力があった。
水俣病の被害は人間やネコを含めて一九五〇年代から発生したが、チッソ、県、国が素直に責任を認めなかったのは、現在、東京電力や国が福島第一原発の事故の責任を認めないのと同様である。
「水俣病」で彼が主に描いたのは、企業や行政の欺瞞にもかかわらず、熊本大医学部の研究者が愚直に原因物質の特定に努力した姿と、被害者たちの素朴ともいえる嘆きである。患者家族は有効な治療法を持たぬ医学研究者に対する不信の念を抱いても、それを表に出すことは稀だった。
私が初めて見た不知火海は、静かできらきらと波がきらめいていた。よそ者の目には、チッソが垂れ流した有機水銀による環境汚染がそこに暮らす多くの人を殺し,病ませ、胎児にさえ害を与えていたという話が嘘のように平和に見えた。原田さん自身も穏やかで、彼の観た事実を淡々と語るのだが、環境医学を学び臨床医学にたずさわる者には、その影響の深刻さをまざまざと想像できた。
午前中の講習が終わると、午後に希望者は患家を訪れた。背の高いきれいな中年女性が和服姿で八畳ぐらいの部屋に現れる時、すり足で歩くのが目についた。「ちょっとそこに寝ていただけませんか」という原田さんの頼みに彼女はあおむけに横たわったが、下肢が内側に曲がりラットの後肢のように交差したのを見て、鳥肌が立った。
さくらさくら わが不知火は ひかり凪
苦痛を忍びながらも声をあげない住民の詠嘆は、石牟礼道子の句にも窺われた。
原田さんとの付き合いが深まり、熊本大学の水俣病研究者たちとも知り合いになり、彼の熊本大学におかれた情況もわかってきた。彼は、肥後もっこすの気質を研究する「体質医学研究所」の助教授だった。熊本連隊の兵士が日清日露の戦争でまったく怖れを見せぬ勇猛果敢な働きを見せたのに感銘を受け、この施設が創られたという。
水俣病研究が熊大医学部をあげて行われている間、彼は頻繁に現地に赴き、地域の患者や家族の状態を観察し,しだいに地域社会全体に及ぼす影響に関心を深めていく。だが現地の医療支援をもっとも強力に持続的に行ってきたのは、彼の弟弟子で水俣協立病院院長の藤野糺さんや看護婦長の上野恵子さんたちだった。何年かにわたり、私は夏休みの一、二週間、協立病院の外来、水俣病の患者さん宅への往診を受けもたせてもらった。メチル水銀の影響は神経系だけでなく、ほかの臓器にも影響しているのでは、というのが私の抱いた疑問だったが、それは当時水俣病認定の申請を出している人々には、腎障害を示す微小蛋白が出ていることにより裏付けられた。
時は過ぎ、公害といえば原田正純の名を想起するほどになり、彼は数々の名誉ある賞を国の内外から贈られた。しかし彼自身は公害の被害者たちに負い目を感じており、自分たちは研究成果を発表すれば名が挙がるが、それは現実に苦しんでいる犠牲者の実際の役には立っていないのだと漏らしていた。小さな食堂でマッカリ(濁り酒)を呑み、馬刺しをつつきながら、そう述懐した彼の顔を思いだす。熊本ではさくらが散り始めていた。
彼は熊本大学医学部に収まるには器量というか存在が大きすぎた。日本の医学アカデミアは流行を追うに忙しすぎるのである。「体質医学研究所」はいつの間にか分子生物学でも遺伝学の研究施設に改組されてしまった。水俣病とその影響を調べる独立した研究科がないため、彼は教授に成らないまま定年を迎える。水俣学という彼のすそ野の広い構想は、熊本学園大学に移ることにより初めて実現した。
何年も前から、彼は上部消化管のがんを患い、消耗していた。もうボロボロですと弱音を吐くのを聞いたこともある。二〇一二年四月の日本消化器学会総会では、彼も私も特別講演を依頼されていたので、会えるかと楽しみにしていたが姿を見せなかった。赤血球と血小板の輸血を続けており、ドクター・ストップがかかったと、五月の日本精神神経学会で藤野糺さんから聞いた。それからしばらくして彼は逝ったが、看取りの医師である私には、やはり「ご苦労さま」という言葉しか思い浮かばなかった。
上野恵子さんは、すでに触れたように水俣協立病院の総婦長だった。大勢の看護師と知り合いになったが、彼女の優しさは際立っていた。一度として声を荒げたり、詰問調になるのを見たことがない。部下の看護師にも患者にも、なにか観音菩薩を思わせる優しさで接していた。そのくせ私を含め医師たちを動かす何か、があった。
彼女は水俣協立病院を定年退職した後、「NPOみなまた」の理事となり地域の患者とのつながりをさらに強くしていた。掘り起こし健診などの事業にも携わり、老齢化していく住民のためのグループホームの建設にもかかわった。人に対する思いやり優しさは相変わらずで、認知症高齢者の紡ぎ住む「意味の世界」を実によく理解していた。
何年かまえ大腸がんが見つかり、それは肝臓にも転移していた。手術、化学療法、放射線療法、免疫療法と手をつくし、熊大病院への入院と在宅医療を繰り返した。こちらは電話で時々様子を聞くだけだったが、がんは肺に転移し、次いで脳にも転移した。苦痛はあまりないものの、だんだん諦念のにじむ口調になって行った。こういうものは低空飛行でだらだら続くが、今の医療技術はなかなか墜落させてくれない、と慰めにもならぬ愚かな慰めをしたりした。
二〇一一年十一月、水俣で「人間の往生―看取りの医師が心がけること」という講演をした。在宅医療の話を入れたが、それは彼女へのはなむけでもあった。お互いにもう顔を合わせないだろうことは判っていた。ご主人にもできるだけ頻回に電話を入れますからと断った。
翌年五月、日本精神神経学会で藤野さんから彼女が水俣協立病院に入院しているが具合が悪いと聞いて、病院にすぐ電話した。彼女は電話口に出たが咳きこんでおり、「つらい」と一言もらした。初めて聞く弱音だった。早く鎮静してあげればと願ったが、それは主治医の判断による。そのあとホスピスに移って亡くなったが、奇しくも原田さんの亡くなるのと同日だった。
死は年ごとに身近になってくる。先日、医学部の親しい同級生も亡くなった。茨木のり子に「さくら」という詩がある。「今年も生きて/さくらを見ています」に始まるが、終わりの部分が良い。
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
さよう、生と死とは同じく「空」であるが、私たち凡人は、蜃気楼を実体と錯覚して生きるのである。