病(やまい)と詩(うた)ーウィリアム・S・クラーク先生(1)ー(ケセラセラvol.77)
東京大学名誉教授 大井 玄
「大志」か「野心」か
終戦当時小学校の高学年だった年代で「少年よ 大志を抱け」のクラーク先生を知らぬ者はいないだろう。言うまでもなく創設期の北海道大学(札幌農学校)の「プレジデント」である。直接教えた1期生には言語学者大島正健、北海道帝国大学総長佐藤昌介、2期生には日本のキリスト教会で指導的地位にあった内山鑑三、「武士道」の著者で国際連盟事務次長だった新渡戸稲造など優れた人物を輩出した。
大島正健の著した「クラーク先生とその弟子たち」には、清教徒的人格者であり、伝道者であり優れた教育者であった彼の姿が、深い敬愛の念をこめて描かれている。
素朴な少年だったわたしは彼の弟子が見た人物像をそのまま信じてアメリカに渡り何年か過ごしたが、そこで知ったのは認識の社会・文化差だった。まずクラークの出身地マサチューセッツ州アマースト以外では彼の名を知る者はいなかった。マサチューセッツ州立大学アマースト校には、レンガ造りの建物「クラーク・ホール」があるがそれを教室として使う学生さえも誰一人としてクラークが何者であったかを知らない。
次に〝Ambition"の語感が人によって違うのだった。たとえばニューヨークから来たユダヤ系の男は、それは利己的意味が強いという。つまり個人的「野心」である。ところがアマーストからの友人は、人それぞれAmbitiousであるべきだと、しごく肯定的にとらえていた。独立自尊の人生を送るには創意を持ち積極的に物事に当たる必要がある。Ambitionはその中核になる心理力動あるいは心構えである。
いずれにせよ日本語の「大志」とはニュアンスが違う。日本語の場合、「志」には他者のために何かをするという意味合いが濃い。たとえば地方から青年が勉学のために上京する場合、友人や近隣の人たちはなけなしの金を包み「寸志」として渡す。わずかな志である。また医師は「志」を持てと教えられる。つまり病に苦しむ者がいれば、金持ちであろうが貧乏であろうが助けなければならない。「赤ひげ」たれという教訓である。
ところでクラークが残した言葉は〝Boys, be ambitious like this oldman"であったと伝えられるが、日本で人口に膾炙した成句には「この老人のごとく」が入っていない。しかしこれがあるとないとでは語感が違ってくるのではないか。50代の「老人」が大志を抱くだろうか。野心ではないのか。大島はこの点について断固として言う。「(野心家たれという訳について)これは誤訳もはなはだしいのであって、先生はすべからく大抱負をいだき未来に夢を持てということを訓えられたのである」
いずれにせよ「アンビシャス」の訳は「大志」が最善であるのか「野心」がより適切であるのか。8か月間の薫陶を通して日本の少年たちの胸に刻みつけられたクラーク像は、アメリカに育ちその文化・社会的文脈で彼を観ることのできる史家のクラーク理解と比較する必要がある。
「クラーク – その栄光と挫折」を著したマサチューセッツ大学アマースト校教授ジョン・M・マキがその歴史家である。
札幌に来る前のクラークの軌跡
1826年に生まれ、1886年に没したウィリアム・スミス・クラークの軌跡には大きく分けて三つの時期が認められる。40年間の学者生活、1861年から2年間の軍人生活、一時儲かったがすぐに失敗する実業家としての短くも悲惨な期間とそれに続いて失意のうちに心臓を病み、活動ができなくなった晩年である。
紙面の余裕がないので、まず学者としての経歴を駆け足でたどってみよう。クラークは18歳のときアマースト大学に入ったがこれが学者への第一歩だった。彼はそこで科学、とくに化学と地質学を専攻したが、これが植物学とともにその生涯の専門分野となる。真面目で優秀であった。卒業後2年間自分の出たウィリストン高校で教えたが、ドイツのゲチンゲン大学大学院に進み、2年後には隕石中の金属に関する論文で博士号を取得し、1852年アマースト大学に戻り、化学と動物学、後に植物学をも教えた。身分は安定し、彼はハリエット・ウィリストンと結婚し、11人の子に恵まれる(三人夭折)。
彼は同大学に15年いたが、優れた教師、革新的な教育者、さらには大学関係の資金集めに有能であるという評判をとる。
しかしここでの勤務は南北戦争のため中断され、1861年夏マサチューセッツ第二十一義勇軍に少佐として加わり、1863年春まで戦地にあって数々の武勲をたてる。大佐に昇進し、のちには准将に推挙されるがそれが実現する前に軍隊を辞めている。彼は卓越した指揮官との評判を取り、危険をものともしない豪勇ぶりが評判となった。
アマースト大学に復帰した時、彼にとっては時代がまさに音を立てて転回する時期だった。1862年アメリカ連邦議会でモリル法が成立したが、これは各州に大学を設立するための土地交付法であった。同法に基づいてマサチューセッツ州で農科大学を新設する計画が進行しており、彼はその大学をアマーストに誘致しようという運動の推進者となり、成功する。その功績と学者としての評価のお蔭で、彼は新設農科大学の学長に選ばれた。彼が農科大学の名学長としての名声が高まっていた頃、明治維新後北海道開拓の必要性を痛感していた日本政府は同じような農業専門学校を札幌に建てようとしていた。後の北海道開拓庁長官黒田清隆が渡米したのは、その学校を発足させるアメリカの教育者を求めてでもあった。
これから数回、筆者の観たクラーク先生を描いてまいります。