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不安のない生活(28)ミュンヘンの思い出 その6(ケセラセラvol.83)

医療法人 和楽会 理事長 貝谷 久宣

 

私が留学したマックス・プランク精神医学研究所は当時、スウェーデン・カロリンスカ研究所、ロンドン大学精神医学研究所とならぶ3大精神医学研究所の一つであると言われていた。所長のゲルド・ペータース教授の専門は臨床神経病理学で、ドイツでは最後の精神科医であり神経病理学の大家であった。ペーター ス教授の業績は「 Klinische Neuropathogie 」という単行本にまとめられているが、何と言っても頭部外傷の脳病理が有名であった。また、彼は統合失調症脳の形態学的研究は異常を見出せないと結論づけていた。ただ、この説はその 後 C T スキャンが世に出てか らは打ち消され、私は帰国後統合失調症の神経病理学と精神薬理学の研究に進むことになった。

私はミュンヘンに到着後ま もなくペータース教授に挨拶に行った時のことを忘れることができない。まず、第一関門の古参秘書にお伺いを立てて面会のアポを取り、面会では、張り詰めた気持ちで教授室に入ろうとするとドアが二重になっており、まず面喰った。いかにも仰々しい教授室に入るとペータース教授は真っ赤な顔をして仁王立ちになり、大声でしゃべり、それを若い秘書がタイプしていた。口述で原稿を作っている最中だったのだ。

私は、仕事を中断させてしまったという恐縮と初めての訪問で緊張度は最高に達していた。所長は私に一方的に早口で話され、何を言われていたのか十分に理解することなく、全身に汗をかいて退室した。ペーター ス教授は研究所の官舎に住まわれており、私の家族とは壁一つ隔てた隣人だった。彼は当時丁度現在の私ぐらいの年齢だったと考えられるが、時間があると研究所のテニスコートでラケットを振るわれていた。また、愛車のオペルに美人秘書を乗せドライブによく行かれた。私たち家族の挨拶にはいつも優しい笑顔で 対応された。私の二人の子供 は“オンケル・ペータース (ペータースおじさん)”と呼 び、愛着を持って接していた。 当時の研究所の所長はまるで王様扱いであり、たとえば、 動物舎の作業員は猟に出て雉 が獲れると早速所長に献上し ていた。

 

私の留学1年目はペーター ス教授の臨床神経病理学を研鑽し、2年目はクロイツベルグ教授の実験神経病理学に従事した。この研究はラットの顔面神経を切断し、脳内の顔面神経核の神経細胞の変性をアセチールコリン・エステラーゼで染めて電子顕微鏡で観る仕事であった。まだ発見 されて間もない軸索内輸送を、電子顕微鏡酵素組織化学を使って観るという1970年代当時としては画期的な研 究であった。私は後半の 1 年 間はこの電子顕微鏡標本つくりに追い回され、日曜日でも、自宅官舎のすぐ横にある研究室との出入りが絶えなかった。

ドイツ留学の前半 1 年はドイツの生活に慣れるため、ゆったりとそれまでやっていた研究の延長線として臨床神経病理学をやりながら、週末はドイツ国内の 1 泊 2 日旅行を楽しんだ。そして、後半の1 年間は実験神経病理学という新しい領域の仕事を手伝い、研究三昧の生活を送り、独語 2 編、英語 4 編の論文の著者となることが出来た(文 末)。今から思えば、頑張っていた若い頃がなつかしい。

1974年 9 月末に私の文 部省在外研究員の期限が切れた。 10 月 1 日には岐阜大学に出勤しなければならなかっ た。ミュンヘンの研究所を去る数日前にペータース所長に神経病理学部門挙げての送別会を催してもらった。研究所内にあるゲストハウスに、教授、研究員、ラボのスタッフ、留学生など多くの人が集まってくれた。このような盛大な送別会を若い一留学生のために開いてくれたのは隣人のよしみもあったのだろう。ペータース教授から餞別にミュンヘンのシンボルであるフラウ エン・キルヘ(聖母教会)の銅版画をプレゼントされた。そ の額は今も私の書斎を飾っているが、裏書のインクは薄れ、Gerd Peters という署名がやっと読める古 さになってしまった。この宝物は私の人生で最も輝かしく希望に胸膨らんだ青春の象徴である。

あれから 40年余、若い頃に基礎研究に熱中してきたことは現在の精神科臨床を進めていく上で決して無駄ではなかったと思っている。

Kaiya H, Mehraein P. Zur Klinik und pathologischen Anatomie des MuskelatrophieParkinsonismus-DemenzSyndroms. Arch Psychiatr Nervenkr. 8;219(1):13-27,1974

Kaiya H, Mehraein P, Yoshimura T. Pallidonigrale und? thalamische Degeneration. Arch? Psychiatr Nervenkr. 219(4):32330,1974

Kaiya H.? Spino-olivo-pontocerebello-nigral atrophy with
Lewy bodies and binucleated nerve cells: a case report. Acta Neuropathol (Berl).? 30(3):263-9,1974

Kreutzberg GW, Kaiya H.? Exogenous acetylcholinesterase as tracer for extracellular pathways in the brain. Histochemistry.? 42(3):233-7,1974

Kreutzberg GW, Toth L, Kaiya H. Acetylcholinesterase as a marker for dendritic transport and dendritic secretion. Adv Neurol.? 12:269-81,1975

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