病(やまい)と詩(うた)【39】ードナルド・トランプ「大統領」と気候変動ー(ケセラセラvol.85)
東京大学 名誉教授 大井 玄
不動産王ドナルド・トランプは、共和党の大統領候補に名乗りを上げたときから、通常人の度肝を抜くような大胆な発言を繰り返してきた。いわく1100万人の不法移民を逮捕し、強制送還する。いわく、メキシコとの境界に通り抜け不可能な壁を建造し、メキシコに費用を払わせる。いわく、イスラム教徒の入国を禁止する等々。
彼によれば、「ジャージー市(ニューヨーク市の隣にある)の何千人ものイスラム教徒が、9・11事件の際、世界貿易ビルの崩壊を喝采した」のである。しかも、「アメリカの推定300万余人のイスラム教徒を登録し、彼らが抱く信仰を記した特別の身分証明書を携行させることも辞さない」という。ナチスがドイツの政権を獲得したとき、ユダヤ人にダビデの星の印を着けさせたことを思い出させる。
さらにプーチンロシア大統領の強権的政治姿勢をたたえ、中国の天安門事件に際しての運動蜂起の弾圧を称賛するばかりか、討論に際して自分のペニスの大きさを自慢した。
日本や韓国には、それぞれの国の防衛に、より大きな負担を求め、場合によっては核武装するのも容認する、という。北大西洋条約機構(NATO)も機能していないと批判する。
同盟各国政府があれよあれよと思う間に、この民衆扇動家は、現実の共和党候補にのし上がってしまった。トランプ「大統領」の可能性は現実味を帯びてきた。政治や貿易に携わる者たちの戸惑いは、恐怖と警戒に代わりつつあるように見える。
しかし彼の本当の怖さは、国レベルのものではなく人類レベルのものではなかろうか。
地球温暖化は人間活動が放出する温暖化ガスに由来するとするIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の視点からは、トランプ「大統領」の実現は、人類文明存続を脅かす出来事だ。それは、共和党の大統領も議員も、気候変動について人間の責任を認めないからである。
1997年、アメリカ議会は「アメリカ企業の競争力を妨げる国際的取り決めには一切加わらない」と満場一致で決議した。ブッシュ共和党大統領の下、経済競争の勝利は環境対応よりも重要な総意であった。温暖化対応を目指した京都議定書からの離脱は、その表明である。
現在でも、下院の過半数を占める共和党員で、地球温暖化に人間が責任あるのを認めるものはごく少数派だ。2015年の調査でも、同党下院議員278人中「地球温暖化は人間活動がもたらした事実」を受け入れたのは、わずか八名だった。
民主党のオバマ大統領になり、ようやく中国やインドとも協調し、2015年暮のパリ協定に持ち込んだ。2025年までに温暖化ガス排出量を2005年のレベルより26~28%
減らすことを約束した。
パリ協定は、196か国が参加し、今世紀末の地球の温度上昇を、産業革命当時より2度以下に抑える目標を謳う点で画期的であった。ただ、実効あるかどうかは定かではない。国際エネルギー機関(IEA)は、各国の目標を積み上げても2.7度上昇すると予測している。
トランプ大統領候補のエネルギー政策は、パリ協定の破壊である。まず同協定から離脱し、国連の温暖化対策プログラムへの資金拠出を停止する。石油採掘の規制を撤廃する。火力発電所の二酸化炭素排出規制を撤廃する。カナダとテキサス州を結ぶ原油パイプライン建設を推進する。
現在われわれは約1万年前に始まった間氷期「完新世」にいる。それまでの地球の気候はきびしい氷河期と暑い間氷期の交代だった。その交代の規模があまりに大きく、急激で、ヒト、ホモサピエンスの人口は一時大人15000人ほどまで減少した、という。ならば、われわれは人類滅亡の危機をもくぐりぬけてきたのだ。
完新世になって初めて安定した農業を営むことができるようになり、都市を築き、文明を発展させる条件がうまれた。
20世紀半ば、化石燃料を利用する産業革命の恩恵は全世界に広まり、中産階級が爆発的に増大した。これをスタートとして、産業と農業に代表される人間の営みは、広範で深刻な影響を地球の生態系に及ぼした。気候変動、大気汚染、土地や水質の劣化、森林破壊による生物多様性の崩壊。
2050年には九十億人が地球にひしめき、経済活動は三倍に増えると予想される。
地球の二酸化炭素排出量は、1960年の40億トンから90億トンに跳ね上がっている。大気中の温暖化ガス濃度は、産業革命前の280ppmから450ppmに上がっているが、これは過去80万年で最高の濃度である。
海洋は、90億トンの二酸化炭素の半分を吸収するという驚くべき復元力を示しているが、今や酸性化しつつある。
「気候変動は中国のでっち上げだ」と公言するドナルド・トランプがアメリカ大統領になることの影響は、計り知れない。