病(やまい)と詩(うた)【42】ードナルド・トランプという症例ー(ケセラセラvol.88)
東京大学名誉教授 大井 玄
ドナルド・トランプ第45代アメリカ大統領は、認知症高齢者の異常精神症状に強い興味を抱く老医にとっては、格好の観察対象である。
なぜなら、認知症高齢者の易怒性と底の割れた「嘘」をついて平然としている点において両者は酷似するからだ。
「もの取られ」のような被害妄想を抱く認知症高齢者には決して逆らってはいけないのは、その介護者の広く知る事実といえよう。もし訂正したりするならば彼は激高し、易怒性、夜間せん妄といった周辺症状が悪化するばかりだからである。九十歳であっても「三十歳」というならそれを受け入れるのだ。
なぜなら「妄想」も「嘘」も彼にとっては真実だからだ。
トランプ氏は、選挙運動中、「現在のアメリカの殺人率は過去四十五年で最高である。新聞はそういうことに決して触れない」と断言していた。それは当然のことで、現在の殺人率は、ピーク時の一九八〇年の半分にも達せず、一九六五年から二○○九年のどの年よりも低いのだ。
大統領就任演説でも、「犯罪と悪党と麻薬によってあまりにも多くの命が失われている」と述べ、 こういう「死屍累々たる殺戮(carnage)は、いまここで終わる」と見栄を切った。こういう明々白々の嘘を大統領就任式でついて平然としている。
大統領選挙中、対立候補のヒラリー・クリントン氏に有利なように選挙の不正があると公言していたが、調査してもその証拠は全くなかった。
また全米での獲得票数ではクリントンが三○○万票ほど多かったが、彼は不法移民たちが彼女に投票したからそうなったのだと主張し続けている。全くそれを裏付ける証拠は存在しない。
就任早々、関係機関との打ち合わせもせずにアラブ系七か国からの入国を差し止めたため、一時各地の空港で大混乱が起こった。アメリカへのテロリスト流入を食い止めるとの理由だった。しかし、一九七五年から二○一五年に至る四十年間に、これらの国出身の者がアメリカで殺人を行った例はゼロである。
さすがにこの入国禁止令は、連邦裁判所から根拠がないとの理由で差し止めを受けたが、彼は「悪い裁判所が悪い判断をくだした。来週新たな大統領令を出す」とめげない。
それに続き、マイケル・フリン大統領補佐官(国家安全保障担当)が、昨年末休暇先のドミニカ共和国から駐米ロシア大使に何度も電話し、対ロ制裁に言及、新政権での対ロ関係改善を示唆したことが明らかになり、同補佐官は辞任した。
彼はトランプ政権の親ロ戦略を主導してきており、ロ大使とは二○一三年からの知り合いで、ロシア放送局の番組に出演し謝礼を受け取り、モスクワの会合ではプーチン大統領と同席してもいる。駐米ロ大使との電話の内容は、米連邦捜査局(FBI)の盗聴により明らかにされたもので、FBIは彼がロシアにつけ込まれる恐れがあると報告した。
政権発足の一か月は、だれが見ても混乱の極みにあるといえよう。しかし、二月十六日トランプ大統領は初めて単独の記者会見を開いて、「大統領府は見事に調整された機械のように動かされている」、「これほど短期間で私ほど成果を上げた大統領はいなかった。だが大きい仕事はまだ始めていない。来週早々からするよ」と自画自賛した。
しかし、彼の補佐官や側近がロシアと接触していたという点について質問されると、「それはメディアが創り出した偽のニュースだ」だと言いはり、「ロシアの話は策略だ。私はロシアとは何の関係もない。自分の知る限り、だれも関係がない」と声を荒げた。しかしニューヨークタイムズ紙は、盗聴された電話の内容や電話記録から、彼の側近がロシアの諜報関係者と何度も選挙前に接触していることを、その週、報道したばかりだった。
トランプ氏は会見中何度も報道機関や記者たちを非難したが、特にニューヨークタイムズ紙とワシントンポスト紙の特定記事に触れ、「でっち上げ」だと指弾した。「新聞は逸脱している。不正直の程度は手が付けられん」と言った後で「民衆はもう諸君の言うことを信用しないぞ」と罵った。
大統領は「全軍の指揮官Commander in chief」とも称されるが、彼はその盛んなツイッターの発信により「ツイッターの司令官」との異名を得ており、その一七○○万人のフォロワーに対する影響力は、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストやCNNテレビなどのような報道機関よりも直接的な宣伝効果が大きいように見える。
ツイッターの百数十字で伝える情報はごく限られている。しかし低学歴のサポーターにとっては、情報の正確な事実性を吟味することよりも、「新聞は嘘つきだ!」という訴えを何十回も見るほうが情動に訴える力があるのだろう。アドルフ・ヒトラーがラジオを通じた宣伝を効果的に利用した歴史に重なる。
トランプ氏を「病的嘘つきpathological liar」と呼ぶアメリカ人もいる。確かに、事実ではないことを、ぬけぬけと繰り返し、自分に都合の悪い事実を決して認めることができない点において彼は「認知症」並みに「病的」といえよう。
しかし地球で最高の権力者が「病的嘘つき」であるのは、背筋の寒くなる事態ではある。